未製本 被害者は誰か?

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2006 / 04 / 07  Fri
   
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 夏海は京一のことが嫌いだった。命のことを軽く見なすのが許せなかった。最初からそうだったわけではない。幼稚園の時から、少女の父親が死んだときまでは、一番仲の良い友達だった。何処へ遊びに行くにしても一緒で、お互い器用でないから友達は二人っきりだった。京一はあまり元気のある方じゃなかったから、夏海があちこち連れ回した。知らない人から仲の良い姉弟ね、と言われたことだってある。互いの家に泊まりに行ったのも、一度や二度じゃきかない。多分、親同士の仲が良いのも拍車をかけたのだろう。夏海は京一のことが大好きだった。京一も夏海のことを好きだったと思う。

 でも、大嫌いになった。

 夏海が、京一を嫌いになったのは、小学生になったとき、夏海の父親が、交通事故で亡くなったときだった。

 夏海はその時のことをよく覚えていない。母親から、父親にはもう会えないのよ、と聞いて悲しくて泣いていたことは覚えている。葬式とか、そういうのは記憶に残っていない。記憶のしこりとして残っているのは京一の言葉だった。

 京一は言ったのだ。

「なんで泣いてるの? 別にいいじゃないか、死んだのなら死んだで」

 京一はその先を続けようとしていたが、夏海は京一の頬を平手で叩いた。許せなかった。

 京一と夏海の父親は、仲が悪かったわけではない。寧ろ、夏海よりも仲が良かった。「俺は、男の子も欲しかったんだ」が父親の口癖だった。夏海よりも、京一との方がずっと親子らしくみえた。だからこそ余計に許せなかった。

「なんで……? なんでなの……っ」

 何故? 何を問いかけているのか、夏海にも分からなかった。京一は叩かれた頬に触れ、ぼんやりと夏海の顔を見ていた。

 それ以上京一の顔を見ているのに耐え切れなくなって、走って去った。もう見たくなかった。

 夏海はぐしゃぐしゃに泣きながら走った。顔をしかめ、まぶたや目元が腫れ、袖で涙を拭くから顔中に涙が広がった。父親が死んでから、一番酷い泣きっぷりだった。

 慣れた道を走る。前が見えにくくても、走れる。この道は、学校の通学路で、何処に何があるかなんて分かりきっていた。転んだことも一度も無い。京一と歩いていたから、どっちかが転びそうになっても、どちらかが助けてくれたのだ。嗚咽が詰まった。足が絡む。転んだ。夏海は身を起こし、座ったまま、一際大きな声で泣き始めた。

 父親の大きな手が欲しかった。助け起こして欲しかった。心配ないよ、と抱きしめて欲しかった。でも父親はもういないのだ。

 京一のことは、もう思い出したくも無かった。それなのに、思い出してしまう。ちっちゃい手。薄く波打つ、顔の端。困ったような顔。いつもすぐ傍に居た京一。でももうあいたくない。知らない。許せない。大嫌い。

 夏海はぐすぐすと鼻を鳴らしながら一人で立ち上がった。体が重かった。家に帰って早く寝たかった。ふらふらと体を揺らしながら帰途についた。

 その日はぐっすりと、夢も見ずに寝ることが出来た。

 翌日。夏海は京一に会わないようにいつもより三十分早く登校した。京一はいつも通りの時間に登校してきた。いつも通りの間抜けな表情で授業が始まるの待っていた。何も無かったみたいに、いつも通りだった。その京一の姿を見ていると、夏海の父親が死んだことも、昨日のことも、登校途中に夏海と逢わなかったことも、なかったみたいに思えてくる。しかし、そんなことは無く、父親は死んで、夏海は京一のことを許せないままだった。

 夏海は京一に一切話しかけなくなった。京一も夏海に近づいてきて積極的に話しかけるということも無かった。周囲の生徒たちは囃し立てたが、夏海は無視した。

 それから一週間程後の事だ。夏海の母親が、夏海に問い掛けた。

「最近京一君と遊んでないみたいだけど、どうしたの?」
「…………別に」
「別に、って……。喧嘩でもしたの?」
「別に。嫌いになっただけ」
「……どうしたの? あんなに仲がよかったのに」
「…………別に」
「それじゃあわからないわよ」
「…………」
「…………そう。言いたくないなら、それでいいわ。でも、京一君とは仲良くしてあげてね。あの子、良い子なんだから」

 その台詞を聞いた途端、夏海は吐き気が込上げた。すぐにトイレに駆け込み、げえげえ吐いた。胃の中身を全てぶちまけても吐き気は収まらなかった。

「良い子……? なにそれ……っ?」

 便器に顔を突っ込みつつそう呟くと、トイレのドアを叩いている音に気づいた。

「どうしたの、夏海!?」
「ううん、なんでもない、ちょっと気持ち悪くなっただけ」
「――なんでもなくないじゃない! ちょっとあけなさい!」

 夏海はすぐにはドアを開けなかった。ぼんやりと考えた。確かに、京一は良い子だろう。それは間違いないことだ。昔から、二人で並べられて良い子だ、と言われてきた。ちょっと遠出をして心配をかけたことはあっても、親に逆らったり、悪いことをした覚えも無い。特に京一は、良い子だけではなく、良い奴でもあった筈だ。そう、大嫌いになった今でも、京一は良い子だったと思う。だけどそんな筈は無い。自分も、京一も、良い子や良い奴ではなかった筈だ。この自分の中で形成された奇妙な印象のちぐはぐさは、一体、どういうことなのだろう?

「なんで泣いてるの? 別にいいじゃないか、死んだのなら死んだで」

 またあの台詞が蘇って来た。今度は胃液しか出てこなかった。一頻り吐き終わると、夏海はのろのろと手を上げ、トイレのドアを開けた。母親はすぐさま飛び込んできた。夏海の顔色の悪さをみると、あわてて熱を測るように、手を夏海の額にあてた。「熱は無い、わね……逆に冷たいくらい……気持ち悪い?」「うん」「そう……今日はもう寝なさい。立てる?」「うん」夏海は出来の悪い人形みたいに母親に手を取られ寝室まで行き、横になった。

 二日寝込み、やっと学校に行けるようになるまで回復した。また学校に通うようになると、自分の孤独さに気づく。友達は京一しか居なかったのだから、当たり前といえば当たり前だった。

 その後の時間の進みようは穏やかだ。それは夏海が誰とも話さない所為だったかも知れないし、なんとなく京一のことを目で追いかけている所為かも知れなかった。

 夏海は中学生になっていた。流石に中学生になると、誰とも話さないわけにはいかず、夏海にも友達らしきものも出来ていた。それでも、一人が好きだった。

 昼休みになると、いつも一人で屋上に居た。指定席は貯水塔の裏。この場所はいつも陰になっていて、誰も近寄って来ないから安心だった。母親の作ってくれた弁当を食べ、後は昼休みが終わるまで、ずっと空を眺めていた。何も有益なものは生まれないが、そんな時間が好きだった。

 ある夏の日だった。プールの授業があったのだが、夏海は体調不良を理由にさぼり、屋上の指定席に来ていた。空は高く、なんだか世界が以前より広く感じられていた。旅に出るならこんな日和だろう。

 夏海は何かの姿を隠しているみたいな入道雲を視界に入れながら、京一のことを考えていた。中学生に上がり、京一にも友達が出来たようだった。それも友達のような、ではない。ちゃんとした友達のようだった。羨ましい、とも思うがそれよりも、良かった、という気持ちの方が強い。彼はぼんやりとしている京一を叱咤してくれている。昔は自分の役目だったのにな、と夏海は薄く笑った。

 今なら、夏海は思った。自分も京一も安定している。あの出来事も遥か昔だ。今なら、京一を許せるだろうか?

 いいや。許せない。相変わらず夏海は京一のことが大嫌いだった。憎んでいた。顔を見るものいやだった。

 それなのに、夏海は頭を振った。京一のことを目で追いかけてしまう。気が付くと、京一のことばかりを考えている。

 遠くでクラスメートたちの歓声が聞こえて来た。彼らは今頃プールの中で水を掻いているころだろう。その中に京一もいる筈だ。少しの間眠ることにしようと夏海は思った。今日は余計なことを考えすぎる。自分は空の流れるさまだけを見ていれば良い。貯水塔に寄り掛かり、眠ろうと目を瞑る。

 扉が開く音がした。屋上の扉は錆付いていて開ける時に大きな音がするのだ。教師だったら厄介なことになると思い、夏海は慌てた。物陰に隠れるようにして息を潜める。声が聞こえてきた。

「あー、もうむかつくなぁ! あの糞教師どもめ!」

 その声は苛立ちを含み、刺々しかった。夏海はびくりと体を震わせた。夏海はこの声の主を知っていた。京一の友達の北見の声だった。

「まあまあ。仕方ないよ。流石に僕も、水着じゃなくてパンツ一丁で泳ぐのは無理だと思う」

 懐かしい声だった。一瞬誰の声かわからなかった。でもすぐに気づいた。京一の声だった。思わず声のする方を覗き見ようとし、辞めた。そんなことしてなんになるんだと、夏海は小さく呟いた。

「いーじゃんパンツで泳ぐくらいさぁ! 水着忘れちまったんだから、しょうがないって!」
「まあまあ」

 どうやら北見はパンツ一丁でプールを泳ごうとして教師に怒られたらしい。北見は散々教師を罵った後、ちょっと申し訳なさそうな声で言った。

「ってお前まで来る必要は無かったんだぞ。お前、ちゃんと水着もって来てたんだろう?」
「まあね。でもいいよ。どうせ水泳の授業なんて興味ない」
「お前はまたそれか。お前って興味の無いことだらけだな」
「興味が無いって言うか……僕は大抵のことが嫌いなんだよ。勿論人間もね」
「おいおい……そりゃ初耳だぞ」
「そりゃ初めて言ったから」
「ってことは俺のことも嫌いなのか?」
 北見の声はおどおどした感じに響いた。
「いや、北見のことはそんなに嫌いじゃない」
「安心していいのやら悪いのやら……。んじゃあお前が好きなものってなんだ?」
「好きなもの……? ……いや、思い浮かばない」
「ほら、無くなったら困るものとかさ、ないのか?」
「特に……無いな」
「んじゃあよ、親はどうだ?」
「好きでも嫌いでもない」
「猫とか犬は?」
「どちらかと言えば猫の方が大嫌いだな」
「学校の奴は?」
「一部の奴以外全員嫌い、だな」
「一部? 俺以外にも居るってことか?」
「そうだね」
「赤松一平とかか?」
「いいや」
「松葉弥太郎?」
「いいや」
 北見はずらっと人の名前を並べた。しかしそろそろ尽きてきたようだった。
「じゃあ……これは無いと思うが、高雄夏海?」
「彼女はね、……たぶん、好きだと思う」
「ってええ!? マジか!? なんでよ!?」
「多分、北見の想像している好きとは違うよ。彼女は、うん、僕にとっては大事なんだ。さっき言ったことは嘘だったね。僕は彼女がいなくなるのは、少し、困る。そういう好き」
「彼女にしたいとか、そういうんじゃなくて?」
「そう」
「……お前、そういう顔も出来んだな」
「……どんな顔?」
「あ~……いや、口じゃうまく言えん」
「ふうん」
「んじゃあよ、お前、何年か前に流行った終末論、はまった口か?」
「終末論?」
「ほら、私の嫌いなものなんて全て無くなってしまえ~、みたいなあれよ。信じるものだけ救われる?」
「ああ、いや、あれも興味なかった。あれって、結局は、自分の居る世界が、自分に優しくない、こんな世界は間違っている、だから壊れてしまえ、そんな風な現象だっただろ? 僕はこの世界は素晴らしいと思っている。続いた方が良いと思っている。だけど嫌いなんだよ。自分のことを含めて、この世の殆どがね。そんなのだったら、例え世界が滅んだって救いがあるはずが無いさ。それだったら、一番良い解決方法は、自分が死ぬこと、自分の何もかも自分で否定することさ。あれとは真逆だね」
「あ~……? なんかそれ、どっかの本で読んだことあるぞ? ……「自分も世界も最悪だ。だったら、自分が死んだ方が遥かにマシだ」?」
「ああ、良いね、それ、僕にそっくりだ」
「おいおい。お前まさか自殺するつもりじゃないだろうな、嫌だぞ俺は、友達が減るなんて、ただでさえすくないんだからよぅ」
「それこそまさかさ。僕が死んで良いと思うには、まだまだしがらみが多すぎるよ。北見のその台詞だってそうだね。多分、僕のことを知っている人が全員居なくなるまで、死ねないんじゃないのかな」
「そいつはお前の優しさってやつなのか?」
「いいや。只の臆病さ」
「だろうなぁ……俺にはわがままにしか聞こえん」
「いや、その通りだね」

 京一の声は、笑いを含んでいた。

 夏海は、雲の膨らむ様子を見ながら、呆然としていた。どうすれば良いのか分からなかった。自分は京一に、笑って話せる友達が居ることに安心すれば良いのだろうか。それとも、明確には言わなかったけれど自分は死んだ方が良い、そう語った彼を心配すれば良いのだろうか。それとも怒れば良いのか? この場から早く立ち去りたかった。でも屋上から居なくなるには彼らの前を通らなければならない。今更姿を見せるのもどうかと思った。あんな話をされた後に出て行ったら、自分は只の道化だ。では彼らが居なくなるのを待つか? いやその前に。自分のことを、夏海のことを、京一はなんと言っていた? 好きだと言っていた。僕にとっては大事なんだと言っていた。もう、何年も、話していないのに、京一は、夏海が居なくなったら少し困る、そう言ったのだ。夏海は自問した。嬉しいか? 悲しいか? 虚しいか? 分からない。

 夏海が忘我している間も、京一と北見のとりとめない会話は続いている。天使は両性具有らしいが、無理矢理分類するならどっちが良いかとか、そんなつまらない会話だった。だがそれは、何の意味も生み出さなくても、確かな、幸福な光景だった。罵り声が混じっても笑い声が絶えない、夢とか希望とか、そんなものなんてひとさじも入っていない会話だった。あまりに幸福な、貯水塔の向こう側の、綺麗な風景だった。

 夏海の姿はそこに入っていない。夏海はそこには居ないことになっているからだ。貯水塔の裏には誰も居ない。そう決まっているからだ。

 夏海自身も自分の考えに深く沈んでいるから気づいていない。結局夏海が我に返ったのは、京一と北見が居なくなって、休み時間のチャイムが鳴ったときだった。夏海はまた空を見上げた。自分が心の中で言った、自分は空の流れるさまだけを見ていれば良い、夏海はその言葉を首の後ろに手を当てながら思い出していた。

 その後の中学生生活は全く変化が無い。謀らずとも京一と同じ高校に合格していたことでさえ、夏海は高校生活が始まってから気付いたくらいだ。

 二人は高校生になった。京一には更に友達の数が増えたようだ。夏海にも、夏海のことを友達だと言ってくれる人が出来た。夏海は恐る恐る、その人と友達付き合いをするようになった。自分からはまだ言えないが、その人のことを友達だと、いつか言えるようになれたら良い、夏海はそう思うようになった。

 高校二年の秋の半ば頃、夏海は散歩途中に懐かしい道を見つけた。小学校の頃の通学路だ。小学校のときに引っ越してから、一度も通ったことの無い道だった。ポストとか、電柱にかかっている看板とか、手を届かすことを目標にしていた塀が、記憶よりも小さく見えた。塀なんて、もう、簡単に乗り越えられるだろう。これが大きくなるってことなんだろうな、夏海は呟いた。呟いたあとで、自分の莫迦さ加減に嫌気がさした。何でそんなことを言わなくちゃいけないんだろうか。

 頭を振って忘れることにする。

 夏海は一旦学校まで遡って、それから、自分が元住んでいた場所に行くことにした。

 その途中で公園に行き当たった。

「なんで泣いてるの? 別にいいじゃないか、死んだのなら死んだで」

 突然、その台詞が蘇って来た。吐き気は、なんとか押さえ込んだ。そうだ、今まで忘れていたけれど、ここであの言葉を言われたのだった。

 夏海は公園の中に入り、ベンチに座った。太陽の光が少々辛かったから手で目元を覆う。今の今まで、あんなことがあったなんて忘れていた。京一のことを大嫌いになった理由だったのに、それなのに、自分の中で、無かったことになっていた。

 最低だ、夏海は顔に当てた手に力を込めながら吐き捨てた。今更捨てようなんて、虫が良すぎる。今更許すなんて、勝手すぎる。そんなことは許さない。絶対に許さない。もう忘れてやるものか。自分は京一のことを一生許さない。それで大団円だ。

 夏海は顔を握り締めたまま目を開ける。指の腹の間から、少し光が漏れているけれど、まだ暗い。手をゆっくり顔から離す。目に太陽の光が突き刺さる。これで良いんだと夏海は声に出して呟いた。

 許せない理由なんてものはもうどうでもいい。自分が父親にしてあげられなかったことを京一がして、自分はそのことに嫉妬して、それなのに京一は、父親を裏切った。そんな理由はもう、いいんだ。父親はもういない。死んだのだ。死んだ人を何度言葉で裏切ろうとも、どうにもならないんだ。

 だからこそ、わたしは、許さない。心が、安易に折れないように、夏海は何度も自分に言い聞かせた。自分はもう、吐くことも出来なくなってしまったのだから。

 夏海は立ち上がった。砂場を覗き込んだ後、公園から出て行くことにした。砂場には誰かが忘れたスッコプが刺さっている。夏海も砂場によくスコップを忘れ、無くした。もしかしたら、砂場をひっくり返せば、たくさんのスコップが出てくるかも知れない。夏海は小さく笑った。やってみるのもいいかもしれない。それで、自分のスコップを集めた後、自分以外のスコップを、持ち主に届けてあげるのだ。それで自分のスコップは、欲しい人にあげる。スコップが無くて泣いてる子供とかにね。夏海は思った。自分は見たことが無いが、多分これこそが、幸福な夢、幸福な想像、というやつなんだろう。

 夏海は想像を置き去りにして公園を出た。学校は思ったよりも近くだった。外観を眺め、踵を返した。逢いに行くような恩師は居ない。また公園を通り過ぎ、角を曲がると、見たことの無い大通りに出た。夏海の記憶ではここは、駄菓子屋さんとか、さっきのやつとは別の公園とかがあった筈だ。どうやら、無くなってしまったようだった。

 車の行き来がやけに激しい道だった。それとは正反対に人の姿は少ない。

 反対側に渡ろうと車の交通量が減るのを待っていると、向こう側で不安定な動きの猫が、よたよたと歩いてくるのが見えた。夏海があっ、と思った時にはもう猫は道路に出てしまっていた。夏海の体が反射的に動こうとすると、自分が曲がって来た角から何かが飛び出して来て、夏海の体を突き飛ばした。夏海の視界一杯に地面が迫ってきた。手を付いて、顔から落ちるのを防いだ。急ブレーキの音が聞こえた。何かがぶつかる鈍い音がした。夏海が起き上がると、地面には黒いブレーキ痕、それと、人が倒れている。猫の姿は何処にも無い。夏海が叫んでその人に近寄ると、その人の姿は自分が良く知る人の姿形をしていた。京一だった。夏海は京一の名を呼んだ。反応が無かった。夏海は京一の体を揺らしながらもう一回京一の名前を呼んだ。京一の体が動いた。夏海はもう一回呼んだ。京一は目を開け。



「やあ―――、久しぶり」



 そう、心底嬉しそうに笑った。

「あんた、なにやってんよ!」
「なにって……道路に飛び出して車に轢かれた」
「違うでしょ!? あんたなに猫を助けようとして自分が轢かれてんのよ! バカじゃないの!?」

 そう言われた京一は、子供みたいな笑みを浮かべて、こう言った。

「ほら、だから言ったじゃないか、命なんて、こんなものなんだよ」


 ここで話を終わらす。結末は好き勝手に考えて欲しい。語るべきことは全て語った。

 ハッピーエンドが好きな人間は京一の怪我は全然たいしたことは無く、ぴんぴんしていたと思えば良い。

 バットエンドが好きな人間は、京一はその後一生意識が戻ることが無く、植物人間になってしまったとでも考えれば良い。

 結果なんて語ったって、ここでは何の意味もないことだ。

 ただ、一つだけ、絶対にそうならないだろう終り方がある。

 それは、京一と夏海が、恋に落ちることだ。
 

                                        
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